ぜんぶわかる

NICO Touches the Wallsのファンのブログです

1125/2016

音楽というのは不思議で、歌われてる歌詞もメロディに重ねるだけでメッセージや贈られる言葉じゃなくピアノのドレミやギターのCコードのように子音と母音をかけあわせたただの響きとしてしか機能せず、それが四人が手動であやつる楽器と一緒に幾重にも重なりリアルタイムで光る音の一粒一粒を生産するのです。その粒は私の耳から、目から、口から、鼻から、毛穴から、あらゆる穴や穴では無かった部分からビュンビュン音を立てて侵入し胸のポンプとなる部分で大騒ぎを始めて、加熱したポップコーンの種のように跳ねまわり、ちらばり、音でできたその光の粒同士が衝突を起こして、そこで散らした火花がさらなる光の粒になりそれがそのまま指先へつま先へ毛先へと流れて陶酔感を引き起こしてぴりぴりと背中がしびれていきます。ふわふわした楽しい気持ち、ズンと暗くて重たい気持ち、パリッとキレのある鋭い気持ち、時にぐっしょりと心を濡らしたりします。それぞれ分岐したそのすべての気持ちのゴールが「大好き!」一点に繋がってるからすごく不思議だけど、そうやって五感を奮い立たされると生きてる心地がする。死んだことがないから説得力が無いけれど私は死ぬより生きてる方が好き、大好き!そんな感じなんじゃないかなと思うのです。

耳を塞いでも鳴り響くやさしい轟音がわたしの胸をくるんで垢を削り取り浄化するような心地がしました。

あこがれという言葉の語源は『あく離れ』、つまり魂の解離です。光村龍哉にあこがれた私の魂の着地点はやはり光村龍哉にあって、あこがれて逃げ出した魂を集めた光村龍哉に会いに行くのは魂の集合と回収なのだと思います。みんなそうやって投げ捨てた地図を拾いに浮き世を彷徨うユーレイになっちゃうんだと思います。だってすし詰め状態のライブハウスで誰かが落としたペットボトル(多分いろはす)を踏みつけた足裏の感触も、誰かの抜けた長い髪が空にのばした腕に張り付いたちょっと嫌な感じも、バーに身体を打ち付けた鈍い痛みも、会場を出ると嫌に暗かった赤坂の夜空の冷たさも、ぜんぶぜんぶ忘れてないのだから。